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#256 書くことに迷ったらすること/羞恥心を持っていたり失ったりすること
書くことに迷った時にすること。メモ帳を見る。過去の投稿を眺める。他に何があるだろう。昨日や今日あったことを思い出す。最近読んだ本の一覧を眺める。直近読んだ本のブックマークを見る。Twitterを眺める。いや今はXだね。あとはオンラインブックマークを見る。
速報性が高い話題というか昨日こういうニュースがあってそれについて自分はこういうこと思うんだみたいな話についてはできるだけ取り上げないようにしていて実際にできるだけというよりはいつも取り上げていないはず。もしかしたら少しはあるのかもしれないけど記憶にはない。
なぜかというとそれを自分に許してしまうと今日こんなことがニュースありました私はこう思います見たこと取り上げていくのは多分簡単なことで、いやもちろんそれについて良い内容を書くということは簡単なことじゃないんだけれども、とりあえずそれを書くということ自体は簡単だし反射的だし。
過去の投稿を眺めた時にやっぱりこう見出しから中身を想像できると嬉しくてそれはつまりインデックスのようなものなわけだからそうすると端的に例えば一言とかで言い表せてるものがあるとそれはそれでいいんだけれどもそうではなくて少し説明っぽかったとしても見出しを厚めにつけておくっていうのは良いことなんだと思っている。
そもそも書くこととそれを継続することの実験の場であり記録であると言うことを思い出してこういう「そもそも書くと言うこと」について書くことについてのてらいというか抵抗というか羞恥心がなくなった。良いこととは限らないのでなくなって「しまった」のかもしれない。
年を重ねて老人になって肉体的な話ではなくて精神性というか対人関係として横暴になってしまったり雑になってしまったりなんだか羞恥心をなくしてしまったりそういう人も世の中にはいる。その逆で高い精神性を維持している人も素晴らしい人もいる。
羞恥心を失うというのは一般的には良くないことのように言われる。けれども羞恥心を捨ててチャレンジをするみたいないい風に言われる時もあるし結局その羞恥心というもの自体がある場面では良いものだしある場面では悪いものである。
だから年を経るにつれてもし若い時よりもいくらか羞恥心のようなものを失ってしまったとしてもそれが残念ながら悪いように働いてしまう時もあるし一方で副作用的に良い方向に働いてしまうこともある。
一方でその若い時に持っているある種の青さとも言える羞恥心、平均しておそらく老人よりも高いであろう種類の羞恥心というものはそれはそれで美しくまたどうしてもやっぱりその時期にしか持てない純粋なものである。