#365 妥協/終わらせること
ふとポストの一覧を見るといかに断片的なのかを感じる。何かしらのテーマを最後まで掘り尽くすことはない。ないと決めているわけでは別にないので、そういうこともしてみてもいいのかもしれない。
前回はこんなこと書いていたな、と思いつつ、前回の続きを書くわけでもなく。そして前回というのはそこで最後まで何かを書き切っているわけではない。
そうは言ってもそもそも、よく言われていることだが、この世界にあるすべてのものは妥協の産物だ。手を抜いているわけではないが、終わらせるということには常に何かしらの妥協が付きまとう。もっと時間があれば、もっとお金があれば、もっと技術があれば、もっとこうできたのに。いつだってそんな気持ちはある。
駄作を作る勇気が大事とか、done is better than perfectとか、なんかその手の言説には事欠かない。しかしそれではただ駄作を作り続けることが良いことなのか、というと、いやここでいう良いというのはまああまり言葉選びが適切ではなくて、なんだろうか、成果につながるのか?ということだろうか。
しかしここには二つの視点が生まれるだろう。まず果たして成果とは何か。そして成果につながらないことは悪いことなのか。二つではなくなってしまったが、もし悪いことだとしても悪いことに何の問題があるのか、悪いことであるということとそれをやらないということに関係があるのか、ということもあるだろう。
まず果たして成果とは何か。何かを作るのであれば、その作ったものを評価される、というのがわかりやすい成果の一つだろう。しかしその評価というものも、誰に、どのように、評価されることを望むのかは千差万別だろう。
そしてもちろん、他者に評価されることだけが成果ではないし、自分自身のために何かを作り続けるということもあるだろう。
いわゆるアンダーグラウンドアートと呼ばれるような物の中には全く他者の評価を必要とせずに作られたものがあることに驚く。
ちなみに私はこの分野についてはあくまでも素人であるが、この「アンダーグラウンドアート」という分類にはそもそも「正規の」アートと、そうではないアートというものがあるという前提が存在するので、必ずしも適切な用語や分類だとはあまり思えないが。
そうこうしているうちに気づいたが、10分が経過していた。最近は5分で打ち切っていたのだがタイマーを読み違えた。